摜

摜 摜

伊東マンショの肖像(Domenico Tintoretto)★ミラノ、トリヴルツィオ財団蔵

Portrait of Mancio Ito 1585年
安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン。天正遣欧少年使節の主席正使、イエズス会員でカトリック教会の司祭。マンショは洗礼名、本名は祐益。伊東氏が島津氏の侵攻を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だったマンショは家臣の田中金太郎に背負われ豊後国に落ち延びる。同地でキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して有馬のセミナリヨに入った。そのころ、巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。そこでセミナリヨで学んでいたマンショを含む4人の少年たちに白羽の矢が立てられ、マンショは大友宗麟の名代として選ばれた。