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ムーラン・ド・ラ・ギャレット

Bal du moulin de la Galette 1876年 131.0cm x 175.0cm
ルノワール35歳の時の作品。ルノワールの代表作であるだけでなく、印象派作品の中でも最も有名な名画に数えられる作品。自身の描いた絵を見た人は、全ての人が幸せになってもらいたい、と常に思っていたルノワールの絵画感を、実在の友人等を登場させて幸せあふれる情景として描き上げている。1877年に開かれた第3回印象派展に出品され、画家で絵画収集家のカイユボットがこの作品を購入し、その後オルセー美術館に寄贈された。

この作品の舞台は、パリのモンマルトルの丘に実在した、踊ったり酒を飲んだりする庶民が集うダンスホール「ムーラン・ドラ・ギャレット」。ダンスホールと言っても、現在の私たちがイメージするような屋内施設ではなく、パリを一望できるモンマルトルの丘の上にあった音楽を聴きながら踊ったりお酒を飲んだりできるカフェや屋外ダンス場をイメージすると分かりやすい。

ルノワールはこのダンスホールの近所に住んでいたが、大きなキャンバスを持ち運ぶ事が困難な為、現場で描いた小さな絵をアトリエに持ち帰り、この作品を描き上げた。その現地で描かれた小さなバージョン(78.7cm×113cm)の作品は、大昭和製紙の名誉会長であった斉藤了英氏が1990年5月に開催されたオークションで109億円で落札し、「日本間で見るルノワール、ゴッホはいいよ。死んだら棺桶に入れてもらうつもりだ」と発言した内容がイギリスやフランスを中心とした欧米の美術界から大きな非難を受けた。その後この小さいバージョンのムーランドラギャレットは、日本国内のバブル崩壊に合わせて1997年に米国の収集家へ売却されている。

多くのブログやウェブメディアで斉藤了英氏のこのエピソードが紹介されているが、彼が棺桶に入れてくれといった作品はがこの本作のムーラン・ドラ・ギャレットに対して発言したと間違った解説をしているブログやメディア等を非常に沢山みかけるが、斉藤了英氏が109億円で落札したムーラン・ドラ・ギャレットはこの本作ではなく、ルノワールが現地に持ち込んで現地で描いていた小さいバージョンの方である。

ムーランとは風車を意味し、風車で小麦を挽いて作ったギャレット(焼き菓子)が有名だったことから、ムーラン・ドラ・ギャレットと呼ばれていた。この屋外ダンスホール&カフェのムーラン・ドラ・ギャレットがあったモンマルトルの丘は、当時はまだパリ郊外の都市部から少し離れた場所でしかなく、のどかな丘陵地に広々とした庭園や風車(ムーラン)等が多数存在していた。ムーラン・ドラ・ギャレットは、大きな二つの風車の間に建っていた納屋をカフェに改装して営業していた。

現在のモンマルトルは確かに多くの建物や名所があり有名な観光スポットとなっていることもあり、この場がかつて大きな庭園や風車がたくさん存在していた丘陵地であったとは想像しにくいが、実際に当時のゴッホが1887年に描いた「モンマルトル、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏」では、そのような自然豊かな風景が描かれている。当時毎週日曜の午後3時から深夜にかけての舞踏会が開催されており、また春や夏等の暖かい時期には、このカフェに併設されていた広い屋外の庭で、大規模な舞踏会が開催され、パリの多くの庶民でにぎわった。この作品はちょうどそんな暖かい日差しを感じる季節に、太陽の光が木の間から木漏れ日としてダンスを楽しむ人々に降り注いでいる様子を描き上げている。

この絵が描かれた当時は、ナポレオン3世のパリ改造計画によって、パリ都市部から追いやられた貧しい人たちがモンマルトル近辺に流れ込み、このあたり一帯は労働者階級以外にも貧しい芸術家等もたくさん住んでいた。このような労働者階級の人々の子育て環境もまた厳しいものであったが、ルノワールはそのような労働者階級の人たちの子供を預かる託児所建設にも力を注いでいた。まさに今の日本で言う待機児童問題のようなものでもある。ルノワールはこの絵を描いた頃、ムーラン・ドラ・ギャレットを貸し切りにして託児所建設の為のチャリティーイベントとして「仮装舞踏会」等も開催していた。この絵の中に黄色の帽子を被っている人物が何名か描かれているが、これはこのチャリティーイベントで寄付等の好意を寄せてくれた善意の参加者に配られた帽子である。

モンマルトルはパリ都市部から離れた郊外に位置することから、当時このあたりにはパリの都市部に住む人たちと比較すると、裕福でない労働者階級の人々や、学生、針子等の職人が多く住んでおり、ルノワールの友人でもあったドガもルノワール同様に、このダンスホールに足しげく通っていた。ちょうどこの頃あたりから、ムーラン・ドラ・ギャレットとは対照的な退廃的で、夜に営業するダンスホールやカフェが人気を集め始めていたタイミングであったが、あえてルノワールは労働者階級の日常を描いた週末の幸せ感あふれる情景を、彼独特の技法によって色鮮やかに陽の光をとらえて描き上げた。

この絵が描かれた13年後に、あのムーラン・ルージュがこのモンマルトルにオープンしており、ムーラン・ルージュと言えば、あのロートレックが有名でもある。またロートレックと言えば、ゴッホの才能にいち早く気づき、ゴッホを理解していたゴッホの数少ない友人でもあり、「ゴッホの肖像」という作品も残している。パリという大都会の生活に疲れきっていたゴッホに、自身の故郷でもあった南仏行きを進めたのはロートレックであり、その南仏に行くまでの間に、ゴッホも弟のテオと一緒にこのモンマルトルで一時期生活をしていた。このように、当時のパリで活躍した多くの画家の日常がこのモンマルトルの丘に存在していた。

みんなの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」鑑賞日記